香りの物語 
それぞれの香りの元になった家族の物語
それぞれの家族にそれぞれの物語がある—。
ふと思い出されるあの日の家族の光景。
3つの香りを創りだすために書き下ろした、ある家族の物語。
※各商品ボタンをクリックすると、物語を読むことができます。
それぞれの家族にそれぞれの物語がある—。
ふと思い出されるあの日の家族の光景。
3つの香りを創りだすために書き下ろした、ある家族の物語。
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初めての子育てに、奮闘しながらも楽しい毎日だった。ふにゃふにゃの赤ん坊時代を経て、
保育園の送迎、買物、ご飯支度、掃除、洗濯…妻と共に目まぐるしい日々。それでも娘の覚えたての
たどたどしい言葉に夫婦でにっこり。
まだまだ小さいと思っていた娘も、あっという間に小学生。小さな背中に大きなランドセル。
生まれてからこれまでの日々を思い出し、泣き笑い。ひらひらと舞い散る桜の花びらが、
今このときをより一層輝かせ、未来に続くこの「一瞬」が幸せでありますようにと祈った。
家族が、家族としての密な時間を過ごした幸福なひとときはあっという間に過ぎて行った。
子どもは立派に巣立ち、そして昨年、最愛の妻も先に天国へ旅立ってしまった。
残された私は、あの日の幸せだった記憶をたどるべく毎年春になると全国各地の桜を写真に収めている。
娘のかわいらしい笑顔とそれを見つめる妻の優しい横顔がいつもそこにあるような気がしている。
とっておきの桜の写真を墓前に供え、妻に報告した。
「来年の春には孫が生まれるぞ」
夫と出会って間もない、まだ恋人同士だったあの頃。
車好きだった彼の趣味も兼ねて、二人のデートはいつもドライブ。すぐにエンストする小さな車の助手席に、私は文句も言わずにちょこんと座っていた。
夏場は日焼けしたくないという私の希望で、海ではなく空気のおいしい爽やかな高原や清流を眺められる森へ出かけた。
森の中に身を置くと、五感が研ぎ澄まされていくのを感じた。言葉を交わさなくてもお互いの考えていることが分かるようだった。聞こえてくるのは川の流れる音と小鳥のさえずり。そして、ふたりの深呼吸の音。まだ若かったふたりには時間だけはたっぷりある。心ゆくまで自然を身体全体で感じていた。
あれから35年。もうすぐ夫の命日。
あの日、若かりしふたりが過ごした森へ行ってみよう。
何気ない日々だったけれど、若いふたりが輝いていたあの日を思い出しながら。
あの日の、初々しい私たちに逢いにいくように。
上京して10年目のある日。東京の慌しい生活にも慣れ、責任ある立場で仕事もこなせるようになった。これまで一度も地元に帰りたいと思ったことなどなかったのに、ここ最近の人間関係の疲れからぼんやりと「それもいいかもしれないな・・・」と考えていた。
そんなときに電話が鳴った。父だった。
上京してから数年に1回しか実家に帰っていなかった私は、すぐに出るのをためらった。いつ帰ってくるんだ?とまた言われると面倒だな・・・と思ったから。
「はい・・・」
「おぉ、久しぶり。元気にしているのか?」
思いがけない優しい言葉に、私はせきを切ったかのように今の人間関係の悩みを話していた。なぜそんな話を父に言ってしまったのかは分からない。衝動的に次々と愚痴が出ていた。ひとしきり聞いた父は、私にこう言った。
「どんなに人に意地悪されても、お前はその人に優しくしなさい」
この電話の2カ月後、父は亡くなった。あのときのあの言葉は父の遺言になってしまった。シンと静まり返った新月の夜。星の瞬きを眺めながら、父のことを考える。あの言葉の本当の意味はなんだったのかと。
「人に優しく生きていくよ」
父と私のあの日の約束。